【8月17日 CNS】中日の文化交流は長い歴史を持ち、相互の文明の影響を受けながら、特に仏教交流を中心にした文化の伝播が重要な役割を果たしてきた。中国の隠元隆琦(Yingen Ryuki)禅師は日本に招かれ、黄檗(おうばく)宗という日本の禅宗三大宗派の一つを創始した。隠元禅師が持ち込んだ中国の先進文化や技術等は、当時の日本社会に深い影響を与えた。

 隠元禅師は仏教の大家でありながら、文化の巨匠でもあった。隠元禅師を代表とする黄檗文化は、「中日交流史の宝石」とも称され、今でも強力な影響力を持っている。日本の黄檗宗の大本山、万福寺の近藤博道(Hakudo Kondo)管長は最近のインタビューで、「隠元禅師は仏教の教義を広めただけでなく、当時の中国の最先端の文化や技術なども日本にもたらし、その多くは今も受け継がれている」と述べた。

 1654年、63歳の隠元禅師は数十人の弟子を連れて日本に到着した。

 仏教は日本の奈良時代に中国から伝わり、臨済宗や曹洞宗を含む宗派は衰退の兆しを見せていた。隠元禅師の到来が日本の仏教復興の大きな契機となった。隠元禅師は中国から渡来してから圓寂するまでの19年9か月間、困難と挫折を経験した。おそらく故郷の万福寺を想い、彼は日本の京都にも「黄檗山万福寺」を建てた。

 1876年に黄檗宗は独立した宗派として成立した。日本の「禅宗」とは、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の3宗派を指す。黄檗宗は中国の文化的特徴を色濃く受け継いでいる。

 黄檗宗は各側面から、日本の仏教界に深い影響をもたらした。隠元禅師とその弟子たちは、中国明末の臨済宗の新しい禅の風を日本に伝える一方で、厳格な戒律を奨励し、三壇戒会を設立し、禅林清規を制定して僧侶の日常の行いの規範化を進めた。これらは日本の仏教界における戒律の緩みと停滞に大きな刺激を与え、各宗派はこれに倣って自己調整を行い、日本の近世仏教の発展に活力をもたらした。

 黄檗文化は、思想、文学、言語文字、書道、音楽から仏像彫刻、印刷、絵画、医学、教育などに至るまでのさまざまな分野にわたり、日本に広範な影響を与えた。

 隠元禅師の東渡は、地域の食文化にも深い影響を与えた。その中には広く知られ、日常生活で欠かせない「隠元豆、隠元豆腐、隠元饅頭」や、黄檗宗の僧侶が日本にもたらした「普茶料理」が含まれる。明代に広まった煎茶という茶の入れ方も、黄檗宗の僧侶によって日本に伝えられ、今では日本の茶文化の重要な形式となっている。

 現在、日本には500以上の黄檗宗の寺院が存在しており、中国の禅宗文化の特徴を持つ黄檗禅は、日本に深く根を張り、中日文化交流の証しと結びつきとなっている。(c)CNS/JCM/AFPBB News