【7月28日 People’s Daily】先日、戚発軔(Qi Faren)氏は酒泉衛星発射センターで有人宇宙船「神舟12号(Shenzhou-12)」の打ち上げ成功を現場で見守った。この88歳の老人は、以前は職場にいたが、今では一般人として広場で、打ち上げ、点火、離陸、飛翔の様子を見て、気持ちが高ぶり、これは、とても得難い経験だと語った。

 戚氏は中国宇宙分野の技術専門家で、中国最初のミサイル「東風1号(DF-1)」の開発に参加したほか、重要な技術責任者として、「東方紅1号(DFH-1)」人工衛星、「東方紅2号(DFH-2)」放送衛星、「東方紅3号(DFH-3)」第2世代の通信放送衛星の開発にも参加した。1992年、59歳の戚氏は神舟宇宙船の総設計士に任命された。神舟宇宙船プロジェクトを主管した際、中国の特色を持ち、中国の実情に合った全体計画を作成した。「神舟5号(Shenzhou-5)」は2003年、中国初の有人飛行を行った。戚氏は衛星と宇宙船の開発過程における重大工程技術問題の解決に重要な貢献をし、国家科学技術進歩特等賞、「全国メーデー労働褒章」を受賞した。

 戚氏は1930年代に生まれた。当時の中国は非常に貧しく弱かった。戚氏は「大きくなったら必ず飛行機を作り、中国を強くしていじめられないようにしよう」と小さい頃に志を立てた。戚氏の人生の選択は、一貫して国家の呼びかけに従い、宇宙事業の需要に奉仕するものだった。神舟宇宙船のみならず、最初のミサイル、最初のロケット、最初の人工衛星にも戚氏の姿があった。「発軔」は、新しいことや局面が始まることを意味する。中国の宇宙事業の発展過程を振り返ると、戚氏の貢献はその名の通りだ。彼自身が言ったように、「私は生涯、心血を党の事業に捧げ、中国の宇宙飛行に捧げてきた。」

 キーになる核心的な技術はもらえない、買えない、求められないものだ。中国の宇宙事業が始まったばかりの1950年代、戚氏を含む多くの宇宙従業者は、ミサイルや衛星を見たことすらなかった。その時、外国の厳重な封鎖により、戚氏は「我々の宇宙事業を発展・拡大するには、他人に頼ることはできず、自分自身に頼るしかない」と悟った。低温実験室がなかったが、海軍の冷蔵倉庫を借りた。先進的なコンピュータがなかったが、手回し計算機で計算・メモした。戚氏は同僚たちと一緒に一つ一つの難題に取り組み、実験を重ね、ついに『東方紅』のメロディーを宇宙に響かせた。外国製部品が一つもない「東方紅1号」は、自力更生、自立自彊を堅持する中国の志を映し出し、無数の国民を鼓舞した。

 宇宙で夢を構築し、九重の天で漫遊する。神舟宇宙船の総設計士の重任を引き受けた時、戚氏はもうすぐ還暦になる年だった。「有人宇宙飛行は人命にかかわる」、これは彼のプレッシャーを倍増させた。同僚と肩を並べて戦い、4回の無人試験船を打ち上げ、数々の難題を解決した後、有人宇宙船「神舟5号」はついに空に飛び、夢をかなえた。宇宙に向けてまい進した一歩一歩は、中国の宇宙従業者が苦労した努力の成果だ。中国の宇宙従業者は長い間苦労して探査を進め、責任を持って献身し、宇宙事業の無から有へ、弱から強に至るまで輝かしい道のりを歩んできたのだ。(c)People’s Daily/AFPBB News