■苦しかったドライバー時代

 アレックスさんは1987年、妻のレーナさん(Lena Kenin)とともに、ほんの数百ドルをポケットに詰め、当時のソビエト連邦から「アメリカンドリーム」を追ってニューヨークへやって来た。

「夜に働いて、午前中は(英語とコンピューターの)学校に通わなくてはならなかった」時期は「本当につらく」、「ニューヨークでタクシーを運転し、無線で英語をしゃべっていたが、相手が何を言っているのかさっぱり分からなかった」そうだ。それでもアレックスさんは、「素晴らしいことに、なんとか生き延びた。(ケニンも)そのことを知っているし、それが娘をタフにしたんだと思う」と話している。

 ケニンに才能があるのは小さい頃から明らかだったが、やはり一家はよそ者で、ツアーで活躍するようになるまでの道のりは簡単ではなかった。ケニンも「まわりからは見下されていた。小さい頃は一番大きい子どもじゃなかったから、『そんなに背が低いのに、何を言っているの? 冗談でしょう』と言われた」という。

「イヤなことも言われたけど、父はずっとそばで私を信じて、そうした言葉には耳を貸さなかった。わかった、じゃあ何か(別のことを)やらせようって言うのは簡単だったはずなのに」

 そしてケニンは、2014年のユース五輪に米国代表として出場すると、翌年の全米オープンテニス(US Open Tennis Championships 2015)でワイルドカード(主催者推薦)を得てグランドスラムデビュー。2018年3月にはランキング100位以内に入り、2019年はツアー3勝、ランクも最高で12位に浮上と飛躍を果たしたが、それでも全豪の優勝候補に推す声は皆無だった。

 ムグルサとの決勝では、アレックスさんは勝利が近づくにつれて試合を見ていられなくなり、優勝スピーチでは、世界中に中継されている光景を携帯電話で撮影していたという。

 ケニンは「父はすごくうれしそうで、わたしもうれしかった。一緒に優勝することができた。『いったい何が起こった?』って言っていて、私も天にも昇る気持ちになった」と話した。

「とても誇らしげだった。私は面倒くさい子どもだけど、それでもやり遂げることができた」 (c)AFP/Talek HARRIS