アウシュビッツ解放75年、生存者が語る「消えない恐怖」
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■メナヘム・ハバーマンさん
1927年チェコスロバキア生まれ
アウシュビッツ囚人番号10 011
メナヘム・ハバーマン(Menahem Haberman)さんはイツェクさん同様、家族と引き離され、アウシュビッツに収容された。まだ10代だった。
8人のきょうだいで生き残ったのはハバーマンさんだけだった。収容所の外にある用水路に連れて行かれ、シャベルを渡された時のことを詳しく話してくれた。
「用水路の両側を忙しく行き来し、水に灰を流さなければいけなかった。私は自分が何をやっているのか分からなかった。作業後、ここでの収容経験が長い人に聞いてみた。『私は何をしていたのですか』と」
「その人は『あなたの家族は全員、ここに到着して4時間後には灰になって水に流されたんだ』と答えた」「私がどこにいるか理解したのはその時だった」とハバーマンさんはAFPに語った。
「私は自分自身に、ここで死にたくない、自分の灰がこの用水路から川に流されるのは嫌だと言い聞かせた」「(ユダヤ人の言語)イディッシュ語で、こう言っていた男性がいた。『働く力がない者は、煙突行きだ』」
「私はその言葉を胸に刻み、繰り返し考えた。ここで死にたくないと」
「毎日、特に夜になるとそのことを考えた」とハバーマンさんは言う。「それは私の中に深く染み付いている。75年たった今も、その言葉と共に生きている。忘れたことはない…忘れられない」
■マルカ・ザケンさん
1928年ギリシャ生まれ
アウシュビッツ囚人番号79 679
テルアビブ(Tel Aviv)郊外の小さなアパートで、マルカ・ザケン(Malka Zaken)さん(91)は、人形に囲まれて暮らしている。まだもともとの箱に入っている人形もある。
ザケンさんはAFPの記者が到着すると、「ショーン、彼はドイツ人ではないから心配しないで。あなたを連れて行かないから」と、そのうちの1体に話し掛けた。
高齢のためザケンさんの記憶は混乱している部分もあり、話も不明確なところがあるが、アウシュビッツのトラウマは鮮明に記憶に焼き付いている。
「幼いころ、母は私にたくさんの人形を買ってくれた」と、ギリシャで両親と6人のきょうだいと暮らしていた子どものころを振り返る。
「でも、母はナチスに焼かれてしまった。人形たちと一緒にいると母を思い出す。まるで、まだ子どもで家にいるような気持ち。そのことをいつも考えている」と語った。ザケンさんは、家で介護人とテレビドラマを見ながら午後を過ごしている。
アウシュビッツでは、いつも殴られたとも話した。「私たちは裸で、彼らは私たちを殴った。(中略)どれだけ苦しんだか決して忘れない、決して忘れない、決して」「なんてこと! なぜ、私が生き延びたのかも分からない」
ガス室の恐怖におびえていたこと以外では、死の収容所で誰もが経験した飢えについても覚えていた。極度の飢えにより、囚人らは歩く骸骨のようになっていたとザケンさんは話す。