■ロケットガール

 フィンリーさんは1963~69年、2人の子どもの育児に集中するため仕事を中断した。だが、自分が専業主婦に向いていないことはすぐに分かった。この間、うつ病も発症したという。「主婦としてはまったくダメだった」「精神分析医師に、どうしても仕事に復帰する必要があると言われた」とフィンリーさんは話す。

 職場に戻った時、JPLは劇的に変わっていた。JPLの肉と骨ともいえる「人間コンピューター」はプロセッサーとメモリーに取って代わられていたのだ。フィンリーさんは、新プログラミング言語であったフォートラン(Fortran)を学ぶことでなんとか後れを取らずについて行けたと当時を振り返る。

 作家のナタリア・ホルト(Nathalia Holt)氏は、著書「ロケットガールの誕生:コンピューターになった女性たち(Rise of the Rocket Girls)」で、フィンリーさんの最も偉大な功績は、1989年10月の木星探査機ガリレオ(Galileo)のミッションに対する貢献だと指摘している。

 ミッション中、ガリレオのアンテナが予定通りに展開せず、計画そのものが行き詰ってしまうほどの危機的状況が発生した。代わりに、探査機に搭載されていたより低出力のアンテナを使って地球にデータを送信することとなったのだが、そこでフィンリーさんらが活躍した。NASAの通信網「深宇宙ネットワーク(DSN)」で地上のアンテナをつなぐプログラムを作成したチームの一員だった彼女は、地球側でのデータ受信が可能となるようシステムを構築したのだ。その結果、ガリレオは彗星(すいせい)の分裂など驚くべき映像を地球に届けることができた。

「問題解決に挑むことは、宝探しや謎解きのようなものだ」と自身の仕事の魅力について語るフィンリーさん。NASAが自身を必要としている間は、退職するつもりはないと話した。(c)AFP/Issam AHMED