【7月7日 CNS】墨と紙、そして筆さえあれば、趙長穏(Zhao Changwen)さんはいつも時の流れを忘れる。「刻苦精励」を信条とする彼女は、「雑談は5分以上しない」と常に自分を厳しく追い込み、四十数年あまり書道の練習を休んだことはない。足で筆を操って生み出す作品は、力強さと温かさを合わせ持っていると書道界で高く評価されている。

 細身の趙さんは常に笑みを絶やさず、外出して知人に出会うと丁寧にあいさつする。人生で経験したさまざまな苦難が、彼女を優しく、穏やかな性格にした。

 1960年代、趙さんは両親と甘粛省(Gansu)蘭州市(Lanzhou)楡中県(Yuzhong)の夏官営駅の近くに住んでいた。家が線路のすぐ近くにあり、蒸気機関車が走りすぎる音がよく聞こえたという。ある日、家の前で線路の枕木が燃えて火事となった。母親は水を持って火を消していることに必死で、後ろにいた幼い趙さんの動きに気付かなかった。列車の大きな音が聞こえ、趙さんの両手は車輪にひかれた。わずか1歳4か月。よちよち歩きを覚えたばかりだった。

 地元の診療所が手に負えず、蘭州市内の病院に搬送されたが、移動に時間がかかり、傷口が細菌に感染したため、2度にわたり腕を切断する手術を余儀なくされた。

 体が不自由な分、趙さんの心は同世代の子供より早く大人となった。勉強する時も物を運ぶ時も足を使った。知識への探求心から足で木の枝をつかみ、壁に張ってある標語をまねして、一字一句丁寧に地面に書いた。感心した母親がすぐ紙と筆を買い、時間があれば字を教えてくれ、趙さんは毎日字を書く練習を始めた。

 趙さんが9歳の時、最愛の母親が仕事中の事故で亡くなった。兄妹3人を養う負担は父親一人にのしかかった。「私に字を教えることは兄の役目になった。一つの字を教えるのに、兄は私に100回書かせた。私は忘れないために400回書いたこともあった。それから家畜の世話もしました」と趙さんは振り返る。

 不幸はさらに続いた。父親が不眠不休で仕事をした後に倒れ、病院に運ばれた直後に死去した。趙さんが15歳の時だった。一家の大黒柱が亡くなり、生活はさらに苦しくなる。「祖母と私、それに弟は、みんな兄の月収の24元(現在のレートで約380円)だけで生活しなければならなかった。木の皮や石炭の燃えがらを拾って、それを売って生活の足しにしていた」

 それだけ厳しい環境でも、趙さんは勉強を続けた。お金を節約するため家の土壁に簡単な黒板を作り、兄は毎日食事の時に、彼女に字を教えた。

 趙さんはその後、辞書の調べ方を覚え、自力で文章を読めるように。古典を暗唱し、高校までの学習内容を独学で習得し、試験を受けて高卒相当の資格を手に入れた。18歳で就職した後も働きながら夜間学校に通う。仕事を一生懸命こなし、会社で何度も「優秀職員」として表彰された。

「職場で特技がある同僚がうらやましかった。画を描くことに憧れたが、画材の費用が高く、書道に専念する決心をしました。最初は欧陽詢、王羲之を繰り返し臨書した。毎朝5時に起きて練習してから出勤し、帰宅後は午前0時過ぎまで書き続けた」。筆を握り続けて足に硬いまめができることも。それでも、粘り強く、完璧主義者の趙さんは、次々と自分の限界を乗り越え、成長していった。

 1991年、趙さんは甘粛省の身体障害者代表として北京の人民大会堂に行き、全国身障者表彰大会に参加。「自強模範」(自助努力のモデル)という称号をもらった。

 趙さんは甘粛省の著名な書家、黎凡氏の指導を受け、長足の進歩を遂げた。2004年、彼女の作品は中国書道協会が主催するコンクールで金賞を獲得したほか、書道展示会「五環杯」で特別金賞、鉄道省から「機関車芸術家」の称号を受けた。

 数々の栄光を手にし、還暦が近くなった趙さん。常に泰然としており、その謙虚さは全く変わらない。そして今、彼女は新しい挑戦を見つけた。それは「中国の書道芸術の宝庫」といわれる敦煌の写経書道を研究することだ。その深く、厚い文化的含蓄のある世界が今の彼女を魅了している。書道への情熱はとどまることはない。(c)CNS/JCM/AFPBB News