死刑判決を2度言い渡された北の元工作員、分断に翻弄され続けた人生
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■死刑
徐受刑者は数か月にわたって過酷な尋問を受け、殴られたり睡眠や食事を奪われたりすることもあったと話す。そして軍事裁判所から極刑を言い渡されたことを明らかにした。
1963年、任務に失敗した新米工作員だったことを理由に死刑は減刑された。しかし1973年には、別の受刑者をそそのかし、共産主義に転向させようとした行為が罪に問われ、再び死刑を宣告された。
「検察が死刑を求刑し、判事が求刑通りに刑を言い渡した。母はその都度、法廷内で気を失った」と、国際的なメディアとして初めてとなるAFPのインタビューで徐受刑者は語った。
両親は、裁判のための費用を捻出するために自宅を売却し、そして2度目の減刑処分につなげた。しかし、息子の出所を目にすることなくその後に他界してしまったという。
当時の韓国の独裁政権は、刑事施設に収容された北朝鮮工作員らの再教育を試みていた。活動家や元受刑者らの証言によると、そうした動きが最も盛んだった1970年代半ばには、抵抗した者は殴られたり水責めにされたりした他、食事や睡眠時間を与えられず、暗くて狭い「懲罰房」に入れられることも多かったという。
だが徐受刑者はかたくなだった。「転向」すれば炎症を起こした左目の治療を受けさせると当局に言われたにもかかわらず、協力を拒み続け、最終的には左目を失明してしまった。
このことについては、「私の政治的イデオロギーは私の人生よりも大切だ」とぶっきらぼうに言い放った。