■原発停止と難民受け入れ、大胆な政策判断

 難題への取り組みを先送りにしているとして批判を受けることも多いメルケル首相だが、2011年の東日本大震災に伴う福島第1原子力発電所での事故を受けて自国の原発の停止を命じたり、2015年以降に難民を100万人以上受け入れたりするなど、驚くほど大胆な決断も下している。

 移民の大量流入では、ドイツの国民およびEUの近隣諸国から反発を食らった。これを受けて、メルケル政権の終わりを予想する声も少なくなかった。

 ところが、新たに流入する移民の数が徐々に減少し、メルケル政権も難民政策を厳格化したことで、支持率は以前のレベルにまで回復。メルケル氏の支持基盤が強力であることから、国内メディアは、中道左派の議員らが対立候補として出馬したことを「政治的な自殺行為」と表現した。

 対立候補の一人だった社会民主党(SPD)のマルティン・シュルツ(Martin Schulz)氏は今年6月、具体的な政策を示さないメルケル氏の対応を「民主主義に対する攻撃」という表現で批判した。この発言によって、メルケル氏の多数の支持者から強い非難を浴びた。

 しかし、多くの政治評論家もシュルツ氏と同様に、ドイツ社会全体が政治的に無関心になってきているのはメルケル氏に原因があると批判した。

■東独育ちのポーカーフェース

 1954年にアンゲラ・ドロテア・カスナー(Angela Dorothea Kasner)としてドイツ北部の港湾都市ハンブルク(Hamburg)に生まれたメルケル氏は、生後間もなくして、ルーテル(ルター派)教会の牧師で左派の父親に連れられ、当時の人々の流れに逆行するように東側の小さな町に拠点を移した。

 伝記作家らによれば、警察国家で育ったことでメルケル氏は常にポーカーフェースを保ち、本音を隠すようになったと言われている。大半の学生たちに倣って、国家が主導する若者の社会主義運動に参加したが、旧東ドイツの秘密警察シュタージ(Stasi)への情報提供はせず、民主化運動からも距離を取り続けた。

 ロシア語が得意で、学業優秀だったメルケル氏は、ベルリンの壁(Berlin Wall)が崩壊した1989年ごろに当時結成されたばかりの「民主主義の出発(DA)」に入党。DAは後に、キリスト教民主同盟(CDU)と合流する。当時のヘルムート・コール(Helmut Kohl)首相からは、庇護(ひご)者のような立場でかわいがられると同時に「お嬢ちゃん」と呼ばれ下に見られてもいた。