■強豪国への道のり

 ブラジルがゼロから表彰台の常連へ上り詰め、世界の有段になるまでの道のりは、柔道の中でも最高難度の投げに匹敵するほど複雑なものだった。柔道の父と呼ばれる嘉納治五郎(Jigoro Kano)が、20世紀初頭に欧州や南北アメリカに柔道を広めていくなかで、ブラジルはその流れに乗り遅れた国だった。

 柔道は何十年もの間、サンパウロ(Sao Paulo)の日系移民社会で細々とたしなまれるだけで、1972年のミュンヘン五輪でブラジルに初めて柔道のメダルをもたらしたチアキ・イシイ(Chiaki Ishii)も、日本で生まれ育った移民だった。

 ところが、そこから柔道はブラジルの主流スポーツになっていく。そしてその一翼を担ったのが、別の国からやって来た移民、和の心を愛するフランス生まれのブラジル人だったというわけだ。

 仏サンテティエンヌ(Saint-Etienne)が故郷のメディさんは、第2次世界大戦(World War II)の影がちらつくなかで、17歳の時にフランスを離れてブラジルに移住すると、1950年代初頭に初めて柔道着に袖を通した。メディさんは「フランスにはもういたくなかったんです。当時はけんかに明け暮れた毎日でした。それで母親に愛想を尽かされたんです」と語った。

 メディさんはその後、ブラジルでめきめきと頭角を現し、帰化後には国内選手権で連続優勝。本来の82キロ級より上の階級も総なめにした。

「ですが、ブラジルで全階級を制覇したことで悟ったんです。自分は柔道のことを何も理解していないと。それで日本行きを決めました」