■難民は「幸運」

 人々はシリア全土の戦闘の前線から逃れてきた。しかし空爆や迫害、貧困から逃れてきただけではなく、新しい人生を希求している。ギリシャのコス島は命からがらの逃亡から、新しい始まりへと向かう折り返し地点となっている。

 新たな出発が非常に厳しいものとなる可能性を、ダマスカス出身のフェアズさんは覚悟している。それでも20代半ばのフェアズさんは、他の人々よりも幸せそうな顔をしてコスの海辺を歩いていた。待ち望んでいたことがあったからだ。「内戦のせいで、逃げてきただけじゃないんだ。スウェーデンに行くんだよ。恋人が住んでいて一緒に暮らしたいんだ」。彼女の新しいメッセージがないか、フェアズさんは携帯電話をこまめに見ながら語った。「僕たちは内戦が終わる可能性も検討したが、気が遠くなりそうだった。だから僕が、海と陸を越える旅に出ることにした。二人が一緒になれるように」

 フェアズさんは、ギリシャ当局による登録を待つ間、コスの路上で寝て過ごしていた。その後、彼はたった2日間でマケドニアとセルビアを通過したが、ハンガリーに入国してすぐに拘束された。彼は拘置所から携帯電話で私宛てに写真とメッセージを送って、あきらめないことを伝えてきた。「僕たちはここに36時間拘束されている…でも、まだスウェーデンに行けると思ってる」。2日後、彼からドイツに入国したというメッセージが届いた。

 コスからアテネまで私と一緒だったジャラルさん(38)は、親戚から借りたわずかな金が届くまで、アテネで足止めをくらった。その借金がなければ、ドイツまで行き着けないと心配していた。彼の友人でホムズ出身のガッサンさん(25)は、8月21日にマケドニア国境に着いた。この日、マケドニア政府は緊急事態を発令し、軍が催涙ガスを発射して、国境を越えてギリシャから来る何千もの人々を阻止しようとした。予想していた歓待とは程遠かった。

 これだけ大規模な難民流入に対処するための青写真を、欧州はもっていない。だが、スペイン内戦や第2次世界大戦、最近ではバルカン紛争など、今回と似た過去の集団脱出を振り返ることは助けになるかもしれない。世界人権宣言(Universal Declaration of Human Rights)が採択されてから60年以上が経った今も、生存権や尊厳に対する権利は多くの人々にとって幻想のままだ。

 しかし、ギリシャでの取材は、私に希望の光を見せてくれた。居合わせた観光客がボランティアに変わる姿や、レストランやカフェのオーナーたちが、自分たちの商売もままならないにもかからず、難民たちに優しく接し続ける姿を見た。それ以上に私は、これほど多くのシリア人が死と抑圧をはねのけ、先行きの見えない未来に直面することを承知で、新しい人生にすべてを賭けてやって来たことを見て、畏敬の念を抱いた。

 コス島からアテネ(Athens)へ向かうフェリーの船上で、新婚のラナ(26)さんとパレスチナ系シリア人の夫、モハマド(38)さんは一晩中、たばこを吸っていた。彼女はインターネットで出会ったモハマドさんと暮らすためにダマスカスから逃げてきた。彼は8年間住んでいるデンマークの首都コペンハーゲン(Copenhagen)から、ギリシャのロードス(Rhodes)島まで彼女を迎えに来た。

「デッキであんなふうに寝るなんて惨めだわ」。金髪にヘーゼル色の瞳をしたラナさんがいった。「そんなことを言わないで」とモハマドさんがいった。「僕たちが不憫に思うべきなのは、まだシリアに残っている人たちだ。ここにいるのは幸運な人たちだ。彼らは生き延びた人々なのだから」(c)AFP/Serene Assir

この記事は、AFP通信パリ本社のセレナ・アシル記者が書き、8月28日に英語で配信されたコラムを翻訳したものです。