東ドイツでは何週間にもわたり、民主化を求める声が大きくなっていた。すでに何万人もの東ドイツ人がハンガリーやチェコスロバキアを通って西側に亡命していた。

 11月9日、午後6時53分。共産党政府の決定について記者会見の場に現れたシャボウスキーは、ポケットから1枚の紙切れを取り出した。

 外国の報道陣でいっぱいになっていた部屋で、彼は東ドイツの指導部が国民の外国への旅行を認めることを決めたと発表した。

「いつ発効するのですか」と、1人の記者が質問した。シャボウスキーはこの想定外の質問に答えを用意していなかった。詳細については何も聞かされていなかったのだ。

 そこで彼はとっさに、「私の知る限り、直ちに有効だ」と答えた。

 東ドイツの人々が国外へ自由に出入りできるようになれば、ベルリンの壁は存在価値を失うことになる。だがその場にいた記者たちは、そこまで考えが及ばなかった。誰も、たった今、このグレーのスーツを着た高官が口にした言葉の意味を理解できていなかった。

 例外だったのが、イタリアの通信社ANSAの特派員だ。彼は会見室を飛び出し、ローマ(Rome)に電信を打った。「壁が崩れた」と。ローマのエディターは送られてきた文をにわかに信じられず、記事にまとめるまでに時間がかかったという。

 この会見のテレビ中継をボン支局で見ていた当時かけ出しの若手記者、ヤシーヌ・ルフォレスティエ(Yacine Le Forestier)は、「私たちはすぐには理解できなかった」と語る。

 会見場にいたドゥバロシェはこう振り返る。「シャボウスキーは、壁を開放するとは言わなかった。私たちはみんな、すぐに発効することは分かっていたが、まさかその夜とは思わなかった」

 午後7時4分、東ドイツの国営通信ADNがシャボウスキーの発表について記事を出した。「渡航規制の緩和について官僚的な詳細が何ページにもわたって書かれていた」と、ルフォレスティエは言う。

 その数分後、AFPは最初の速報を出した。

「編集部に静寂が流れ、私たちはただ互いに顔を見合わせた」と、ルフォレスティエは回想する。