【8月22日 AFP】黒い髪は白いシュシュで一つにまとめられ、指に塗ったピンクのマニキュアは剥がれかけていた。普通の10代の少女と変わらない、と私は思った。ただ一つ違うのは、語る話の内容だ。それは、のんきな10代が話す内容からはかけ離れていた。

イラクのヤジディー教徒のジハンさん。イラク北西部の町、バードレ郊外の仮設住宅で(2019年6月25日撮影)。(c)AFP / Safin Hamed

 イスラム過激派組織「イスラム国(IS)」に誘拐されたヤジディー教徒のジハンさん(18)は、誰も経験すべきでない、つらい5年間をたった一人で生き延びた。

 イラク北部シンジャル(Sinjar)の山岳地帯にある少数派ヤジディー教徒の村に住んでいたジハンさんがISに誘拐され、家族から引き離されたのは13歳の時だ。

 15歳の時には、すでにチュニジア人のIS戦闘員と強制的に結婚させられていた。「避妊してほしいと言いましたが、彼は子どもが欲しいと言いました」。尻込みすることなく、そう話した。

 17歳までには、すでに2児の母親になっていた。米国が支援するクルド人部隊からの攻撃にさらされたISが、徐々に「カリフ制国家」と称する支配地を失い始めると、ジハンさんはISの戦闘員に連れられ、複数の都市を転々とさせられた。

 3人目の子どもは、シリアの農村バグズ(Baghouz)で生まれた。今年初め、ISが最後の拠点としていた場所だ。3月、ジハンさんはようやくクルド人部隊によって救出され、ヤジディー教徒のための保護施設に、子どもと一緒に身を寄せた。

 18歳になり、さらなる試練に直面した。母親であれば、何年かかっても決断できないような選択を迫られたのだ。ヤジディー教徒の社会では、父親がヤジディー教徒でない子どもは受け入れてもらえない。そのため、ヤジディー社会から追放されてもなお子どもたちと一緒に暮らし続けるか、あるいはシリアに子どもたちを残して一人で帰郷するかのいずれかしかなかった。

 1週間悩み続け、最終的に故郷に戻る決断をした。兄一家が暮らす家に身を寄せたジハンさんは6月、その家で私たちのインタビューに応じた。

イラクのヤジディー教徒のジハンさん。イラク北西部の町、バードレ郊外の仮設住宅で(2019年6月25日撮影)。(c)AFP / Safin Hamed

 性暴力の被害者にカメラを向けながらインタビューを行うのは、初めての経験だった。しかも、取材班の大半は男性だった。そのため、ジハンさんや親族が私たちに打ち解けられるよう、お茶を飲みながらおしゃべりするなど、ゆっくりと時間をかけた。インタビューを始める際にも、ジハンさんにネックマイクを装着する時にはゆっくりと慎重に行った。

 ジハンさんは口ごもることなく、性奴隷だった頃の暗い過去を率直に語った。ジハンさんの話は私たちの心を打つと同時に、胸を締め付けた。子どもたちを残してきたことは、後悔していないという。ジハンさんは自分の子のことを「ISの子どもたち」と呼んでいた。だが、子どもたちのことを話す時、目はかすかに輝き、口元には笑みが浮かんでいた。彼女は子どもたちをシリア北東部にあるヤジディー教徒が運営する施設に預けたが、施設からは、子どもたちは孤児院で暮らすことになると告げられたという。もう子どもたちのことは考えない、とジハンさんは言い切る。「なぜ私が彼らに会いたいと思うのでしょう? そこにいれば彼らは私を忘れられるでしょうし、私だって彼らを忘れられます。彼らには自分の人生を生き、大人になってほしい」。ほぼ無表情でそう話した。

 意に反して母親になってしまったジハンさんだが、彼女の若さはある意味、その複雑な思いから目を背けるのを容易にするのだろうか、と私は思った。私は自分が18歳だった頃のことを思い出してみた。だが、どう考えても、向かい側に座るこの物静かな少女ほどの勇気は持ち合わせていなかっただろうと思った。

「また結婚すると思いますか?」と私は尋ねた。これほど早い段階で人生を複雑なものに変えた結婚という制度への拒絶反応から、「ノー」という断固たる答えが返ってくると私は予想していた。だが、彼女の答えに私は再び驚かされた。

「自分の人生がどうなるか見てみたい。勉強を始めるかも。私はまだ若いです。あれが起きたのは13歳の時でしたから」

ISとシンジャルのクルド人治安部隊ペシュメルガとの戦闘を逃れてきたヤジディー教徒の人々。イラク北部ドホークから約15キロ離れたシャリヤの保護施設で(2015年5月20日撮影)。(c)AFP / Safin Hamed

 私たちはイラク北西部ドホーク(Dohuk)県に1週間弱滞在した際、ISの捕虜となったヤジディー教徒の女性や子ども、その家族、活動家、ソーシャルワーカー、聖職者らにインタビューを行った。ヤジディー教徒は2014年、昔から暮らしてきた村々をISによって追われ、ドホーク県の丘陵地帯に点在する数十か所の避難所や非公式の集落でどうにか生き延びてきた。

 国連(UN)から提供されたテントや、セメントで造られた1部屋だけの掘っ立て小屋は、死や不信感や恥辱に満ちた、胸が悪くなるような話であふれているように思えた。

 この5年間、こうした話は国際的な関心の下で明るみにされ、新聞記事やドキュメンタリー、特別報告などで伝えられた。私たちの目的は、破壊された上、メディアに追い回された地域社会の人々を必要以上に特別扱いしたり、そういった人々の傷口に塩を塗ったりすることなく、彼らのセンシティブな問題を事実に即して伝えることだ。

イラクのヤジディー教徒の女性。イラク北西部の保護施設で(2019年6月24日撮影)。(c)AFP / Safin Hamed

 ジハンさん一家は、荒廃したヤジディー社会で見られるあらゆる家族の縮図だ。ジハンさん自身は、ISの性奴隷だった時代や、子どもたちとの生き別れという胸が張り裂けそうな決断を経験してきた。ジハンさんの両親は、およそ10万人のヤジディー教徒が2014年以降、そうしてきたように、国外に逃れ、子どもたちと離れ離れになった。兄のサマンさんは、子どもたちを養いながら、行方の分からなくなった親族を探し続けている。そして、ISに誘拐されて今も行方のわからない姉と2人の兄弟は、家族写真の中にぽっかりと開いた三つの穴のようだ。

 ジハンさんの3人の子どもの父親は、ジハンさんのきょうだいを誘拐した人物と同じ組織のメンバーだ。この溝を埋めることは決してできない、とサマンさんは話す。「彼らがここへ来ることを、どうやって受け入れろと言うんです? どうやって?」

 2014年にISに誘拐された他の子どもたちは、人生の半分をイスラム過激主義者らとともに過ごした後、やせ細って戻って来た。

IS最後の拠点、イラク・バグズで救出された11人のヤジディー教徒の子どもたち。シリア東部デリゾールにあるクルド人主体の民兵組織「シリア民主軍(SDF)」の管轄地域で(2019年2月23日撮影)。(c)AFP

 ドホーク滞在最終日の数時間、私はある大家族と過ごした。7~12歳までの子ども5人は、この3年間にISの元から別々に救出された。2016年に救出された子どもたちと、わずか数か月前にバグズから救出された子どもたちの間に外見的な違いがあることに気付き、私は落ち着かない気持ちになった。2016年に母親とともにISから逃れた兄妹は、明るい色の服を着て、クルド語を話しながらテントの中を飛び回っていた。一方、数か月前に自宅に戻って来たばかりの3人のいとこたちは、部屋の隅に座り、アラビア語を話しながらシューティングビデオゲームで遊んでいた。私は3人のいとこの母親に、私の母国語であるアラビア語で話し掛けてもいいかと聞いてみた。彼らのアラビア語はISから学んだものなので、トラウマになっているかもしれないからだ。だが、母親は肩をすくめただけだった。

 私はそのうちの一人、10歳のラマちゃんにノートを渡した。彼女は苦労していくつかの文字を書いた。「それは何?」と私が聞くと、彼女はこう答えた。「私、前は別の名前だったの。別の家族が付けた名前」。悪夢を見るかどうか尋ねると、ラマちゃんは私をぼんやりと見つめた。こうした質問は、幼い被害者に投げ掛けるには、あまりにも大きすぎた。

 私は子どもたちを見ながら、この子たちは大人になった時、故郷や宗教、家族についてどのように考えるのだろうと思った。捕らわれていた経験と深く結び付いているアラビア語を、最終的には捨てるだろうか? 自分たちを5年間育てた人々が暴力的に破壊した地域社会の人々に、自分たちの経験を打ち明けることができるだろうか? こうした質問は、幼い被害者に投げ掛けるにはあまりにも大きすぎる。それに、彼らの心を再び傷つけてしまうのではないかと怖かった。

このコラムは、AFPバグダッド支局のマヤ・ジェベイリー(Maya Gebeily)記者が執筆し、2019年7月16日に配信された英文記事の前半を日本語に翻訳したものです。