【6月18日 AFP】「この路地には住民がいます」──イラク・モスル(Mosul)の主要道路につながる狭い通りに張り出されたぼろぼろの布切れには、赤、黒、青のペンキで、こうした意味のアラビア語が手書きで記されていた。この路地は、人が住めるような場所にはとても見えない。戦闘が終わって2年近くになるが、路地を囲む建物の壁には今も弾痕や迫撃砲のへこみが残り、ひび割れた舗道には下水がごぼごぼと音を立てながら流れ込んでいる。通りに掲げられた表示は、生活物資を届けに来た支援グループに住民らの居場所を示すためのものだ、AFPの同僚たちがそう教えてくれた。荒廃した迷路のようなモスル西部では、住民たちが人目につかずに細々と暮らしている。

イラク・モスル西部の壁に張ってあった「この路地には住民がいます」と書かれた表示(2019年2月撮影、筆者提供)。(c)Maya Gebeily

 私がモスルを訪れるのは、2016年10月以来だった。当時、イラク軍がイスラム過激派組織「イスラム国(IS)」に対する大規模な掃討作戦を行っていて、私はAFPから短期の取材を依頼されたのだ。9か月にわたるこのときの激しい戦闘は大勢の死者を出したが、慎重に定められた目的は、物質面での支援を受けつつ最終的に達成され、その詳細は世界中のメディアによって報じられた。

 IS掃討後のモスル──そしてその数週間後、モスルとよく似た街、シリアのラッカ(Raqa)──に数日間、滞在してみて徐々に分かってきたのは、この街の今後について予想したり正確に伝えたりすることは、これまでとは比べものにならないほど難しいということだった。街に活気を取り戻すための段階的な戦略はなく、指揮管理を行うまとまった組織も存在しない。何をもって勝利と言うのか、勝利宣言はいつ行われるのか、そうしたことは明確でないことが多い。だが軍が行う戦闘のすべての局面を取材してきたように、私たちメディアは、紛争から必死で立ち直ろうとしている街や社会の様子を丁寧に熱意を込めて伝えるべきだと思う。

シリア北部ラッカの倒壊した建物の前で野菜や果物を売る露天商(2019年4月14日撮影)。(c)AFP / Delil Souleiman

 2月の寒い朝、私たちは、チグリス(Tigris)川を挟んだ東側からモスルに入った。そちらは西側に比べて被害が少なかった。街に入ると、見覚えのある場所がいくつかあった。まず幹線道路の交差点。近くの墓地に潜んでいたISの射程圏内だったため、危険過ぎて渡ることができなかった場所だ。負傷したイラクの民間人や兵士を外国人医師らが治療していた空き地。二つの地区の間にあった溝。2016年に訪れた際は、ここで身元の分からない1人の遺体が日に日に泥水の中に沈んでいき、やがて完全に埋もれてしまうのを私は見ていた。今ではこの地域に舗装道路が走っていて、交通量が多いときに誘導してくれる信号まで備わっている。敷かれたばかりのアスファルトの下には、他にどのくらいのものが──何人が──埋まっているのだろう。

「国境なき医師団(MSF)」が運営する診療所の取材を終えた私たちは、人でにぎわう家族向けのレストランで遅めの昼食を取った。羊の睾丸(こうがん)を焼いた料理をあえて注文してみたが、その数時間後にはまた同じ料理を前にしていた。そこから市場の人混みを抜けて預言者ヨナ(Jonah)の墓とされるナビ・ユヌス(Nabi Yunus)聖廟(びょう)があるモスクまで歩いた。2014年にこの街を制圧したISに荒らされ、破壊されていたモスクだ。中庭に続く階段には若者やカップルが大勢いて、冬の夕暮れ時を楽しんでいた。モスル東部は、大体こんな感じだった。ISに破壊され世界中にその名が知られることとなったこの建造物を、平穏な日常の光景がベールのように覆っていた。

イラク・モスル旧市街にあるヌーリ・モスクとハドバ・ミナレット(尖塔)の残骸(2018年12月16日撮影)。(c)AFP / Zaid Al-obeidi

 モスル西部には、このようなベールはなかった。

 モスル西部には、モスル最古の文化財や有名な博物館、かつて街の人々に愛された、傾いたミナレット(尖塔<せんとう>)、そこに隣接するヌーリ・モスク(Nuri Mosque)があった。ヌーリ・モスクは2014年、ISの最高指導者であるアブバクル・バグダディ(Abu Bakr al-Baghdadi)容疑者が、シリアからイラクにまたがる一帯にカリフ制国家の樹立を宣言した場所だ。西部はまた、ISがイラク治安部隊による激しい攻撃にさらされながらモスルで最後の抵抗を試みた場所でもある。私はその攻撃の取材には同行しなかったが、AFPの同僚たちや他のメディアの多数の同業者らは、終盤のISによる容赦ない攻撃を現地から伝え続けた。私は気持ちが引き締まる思いがした。

 チグリス川に架かった鉄橋を渡り、私たちはモスルの西岸に向かった。反対側にあるいくつもの小山が、土砂やごみではなく、家屋や店舗、モスクなどが判別不可能なほど粉々になって積み上げられたものだと気付くまでにしばらくかかった。ここは、モスル西部の入り口と呼ぶにふさわしかった。その先には、広い通り沿いにがれきと化した建物が並び、所々は建物が完全に破壊されて空き地になっていた。この街が奪還されてから2年近くたつが、ブルドーザーやクレーン車は、建物を再建するためではなく、記憶を消し去るかのようにいまだにがれきを撤去していた。

イラク・モスルの倒壊した建物のがれきから金属をあさる人(2019年1月撮影)。(c)AFP / Zaid Al-obeidi

 こうした建物の一つに、ナショナル・インシュランス・カンパニー(National Insurance Company)のビルがあった。ISから同性愛者と決め付けられた男性たちが屋上から突き落とされた悪名高い場所だ。だが、モスルでは現代建築を代表する建物として知られ、その骨組みを撤去すべきかどうかで議論が行われていた。私は取材に同行していたモスル出身の同僚たちに、この建物をISの犠牲者の記念碑に改修することは重要だと思うかと尋ねた。

「もちろんだ。ここで起きたことは、すべて忘れてはいけない」。IS支配下のモスルで数か月暮らした後、イラクの首都バグダッドに逃れた同僚は、力を込めてそう話した。

 だが長い沈黙の後、別の同僚は「いいや」とつぶやいた。彼はISに支配されたモスルで丸3年暮らしていた。「やつらを示すもの、やつらが行ったことはすべて消し去るべきだ」

イラク・モスル(2019年2月撮影、筆者提供)。(c)Maya Gebeily

 私たちは沈黙したまま車に揺られ、ISの「カリフ制国家」発祥の地、ヌーリ・モスクがあった場所に到着した。まだがれきの撤去作業は行われておらず、私たちが車から降りると治安部隊の隊員が警戒した様子で私たちに目を向けた。モスクの中庭に通じる装飾を施された門は、銃弾の痕が無数にあったが崩れてはおらず、この場所の復旧を誓っているとも取れる言葉が英語で書かれた横断幕が掲げられていた。門を回って中庭に入ると、モスクと、穴の開いた青緑色の円天井が目に入った。戦闘によって大きくえぐられているため、建物内部の反対側まで見渡すことができた。円天井の端には、誰かがスプレーで書いた「Fuck ISIS(IS、くたばれ)」という英語の文字が残されていた。中庭の向こうにある、有名な傾いた尖塔、ハドバ(Hadhba)ミナレットは、今は切り株のようになっていた。

 バグダディ容疑者は2014年に初めて人前に姿を見せた際にどこに立っていたのか、そして、その後、彼の言葉が信じ難いほどの波及効果を生んだことに私は思いをはせた。緊密な社会が彼らによってずたずたに引き裂かれ、子どもたちは避難民キャンプで過ごすのを余儀なくされたこと、斬首やむち打ちを何度も目にしたことで私たちの暴力に対する閾値(いきち)が変化したことなどについて考えた。私は迷信深いタイプではないが、ヌーリ・モスクの周囲には邪悪なエネルギーが渦巻いていた。毒を含んだ何かが産み落とされ、今も内部で腐敗し続けているようだった。このモスクは何世紀もの歴史を持つが、ISがこの建物に振るった悪行の名残を払拭(ふっしょく)することは不可能に思えた。

イラク軍がISから奪還して半年たったモスル旧市街の様子(2018年1月8日撮影)。(c)AFP / Ahmad Al-rubaye

 曲がりくねった道を通って川岸に車で戻る途中、燃やされ、破壊され、放置された商店街のそばを通った。その光景はまるで虫歯だらけの口の中のようだった。その中に1軒だけ営業している商店があり、プラスチック製の蛍光色の水差しや掃除用ワイパー、モップなどの日用品を売っていた。廃虚と化したこの街で今、こうした商品を買おうとする人がいるとは思えなかった。ふと、2016年にモスル東部で見た光景が思い出された。避難民キャンプに移るのではなく、街にとどまり、攻撃に立ち向かうことを選んだ住民たちが、周囲を迫撃砲によって破壊されながら、自宅の玄関先の階段を掃除していた。あれは反骨精神の表れだったのか。狂気? 人が持つ正常性?

 モスルの博物館の一部には命を示すものもあった。ここでは、アーティストたちが「帰還」をテーマにした絵画や彫刻を展示していた。来館者の中には、モスル出身の盲目の男性と母親がいた。男性は、ひそかに放送されていたラジオ・モスル(Radio Mosul)を聴きながら、ISの支配下で何年間も生き延びたのだった。同ラジオ局の番組司会者やゲスト出演していた歌手たちも集まっていた。彼らの声を聞き、それが誰の声か分かったときの男性の素直な喜びようは、ヌーリ・モスクから発せられる邪悪なエネルギーさえもかき消してしまいそうだった。あと少しで。

イラク・モスルで活動するアーティスト(2019年2月撮影、筆者提供)。(c)Maya Gebeily

 モスルから戻って数日後、AFPから今度はシリア東部に派遣された。そこでは米国が支援するクルド人主体の民兵組織「シリア民主軍(SDF)」がIS最後の拠点バグズ(Baghouz)に猛攻を仕掛けていた。私たちは、民間人の脱出や拘束された外国人戦闘員、避難民キャンプでの人道的懸念などを2週間にわたって取材した。予定ではその後、帰国することになっていたのだが、私たちはどうしてもラッカを少し見ておきたかった。

 ISは数年間、ラッカをシリアの事実上の首都と位置付け、厳格なシャリア(イスラム法)を適用してナイム広場(Al-Naim Square)で集団処刑を行った。私たちは2017年に1か月にわたり、ラッカ奪還を目指すSDFの攻撃を取材した。米主導の連合軍による激しい空爆は、ラッカを住民のいないモノクロの荒れ地に変えてしまった。私たちの取材は、この街でISによる支配が終わる瞬間まで続いた。

 2月に戻ってきたときに発見したのは、1階だけが機能している街だった。ISが去った後、住民たちには家の一部を修理する資金しかなかったため、大半の建物の1階部分だけが住居や商店として使われていた。再開された店先では、衣類や建設資材などが売られており、レストランでは水っぽいファテ(ヨーグルトソースをかけた軽食)やカリカリのファラフェル(ひよこ豆をつぶして揚げたもの)が提供されていた。だがそうした店舗の上には、今にも崩れ落ちそうなコンクリートと鉄筋の塊が危なっかしく乗っかっていた。ここでもモスル同様、ブルドーザーは建物を壊して中から腐敗した遺体を引っ張り出すために使われていることがほとんどだった。モスルでは東と西、古い街と新しい街に分断されていたが、ラッカでは建物の1階とその上の階とで分断されていた。

シリア北部ラッカにある破壊された建物の前をバイクで通るカップル(2019年2月19日撮影)。(c)AFP / Fadel Senna

 今回の再訪では、思いがけない再会もあった。私と同僚は2017年、「ラッカ市民協議会(Raqa Civil Council)」のメンバーたちにインタビューした。当時ラッカではまだ激しい戦闘が続いていたため、彼らは北方のアインイッサ(Ain Issa)を拠点に活動していて、ISから街を奪い返したらすぐに自治を行えるよう準備していた。だが現在は、ラッカ市内の大きなコンクリート製の複合施設に拠点を置いていた。私はそこで協議会のメディア担当者の一人であるモハンマド氏と再会した。2017年に会ったときは少しよそよそしい印象を受けたが、その印象は彼の驚くほど青い瞳と同様に変わっていなかった。だがそれ以外のことは、粘土が固まるように変わっていた。彼の額や口元にはしわができ、かつて故郷ラッカの再建について熱心に語っていたときの楽観的な態度は消え去り、現実的で官僚的な冷淡さが取って代わっていた。

「おめでとう。アインイッサではなくこの街で再会できるなんて素晴らしい。調子はどう?」。私は彼に握手しようと笑顔で大きな机に近づきながら言った。

「仕事は山ほどある。よく訪ねてくれた」。彼は書類の山を指さしながら素っ気なく言った。

 それからSDFの報道担当者だったひょろっとした体形のアフマドにも会った。彼の故郷ラッカで戦闘の取材をする際、いつも私たちに同行してくれた。彼はその後、妻とともにラッカに戻り、現在はバグズの取材に訪れる外国人ジャーナリストたちの民間コーディネーターとして働いている。歯列矯正のためのブリッジは外れ、もう軍服ではなく、フリースとジーンズ姿だった。

「戦闘が終わるのは楽しみ? 随分長い間、IS関連の仕事をしてきたでしょ」。私は彼と抱き合った後、そう尋ねた。

「戦争はもううんざり。それでも、僕たちはそれで生計を立てていた」と彼は肩をすくめ、「戦闘が終わり、ジャーナリストが帰ってしまったら、どんな仕事をすればいいか分からない」と続けた。

イラク・モスルにおけるIS掃討作戦で手足を失い、同国北部クルド自治区アルビルに義肢の試着に訪れた人々(2018年1月16日撮影)。(c)AFP / Safin Hamed

 ラッカとモスルは古く、計り知れないほど豊かな街だ。歴史をひもとけば、過去に何度もこの街の支配者は変わった。ISによる支配は、ごく最近の出来事にすぎない。だがISは、現代的な部隊とニュースの24時間配信という完全無欠の力によって、この二つの街を破壊し、徹底的に支配した。戦時中の特派員のように、私たちは毎朝、空爆や車両爆弾の爆発の件数、奪還した地域の数、死者の総数などを数えた。一方の旗が引き下ろされ、もう一方の旗が掲げられるところを観察し、避難する家族や崩壊したインフラのことを記事にした。

 だが復興していこうとする街の様子をどうすれば正確に伝えることができるのだろう? モスルの住民は再び信頼し合うようになったのか、どうすれば分かるのか? ラッカに数時間の滞在をするだけで、かつてISの拠点にされたこの街の住民が今は安全だと感じているか調べられるのか? ちゃんと理解したいと本気で思うなら、戦闘終結後の不確かで混沌(こんとん)とした状況の中に飛び込むべきだ。私たちは、人々が復興を目指す際に起きる厄介な問題を、軍によるIS支配地域の奪還を取材したときと同じ情熱をもって伝えなくてはならない。なぜなら、モスルとラッカの住民に関して言えば、戦闘はまだ終わっていないのだから。

イラク・モスルの破壊された道路を歩く下校途中の生徒たち(2018年11月28日撮影)。(c)AFP / Zaid Al-obeidi

このコラムは、イラクの首都バグダッドを拠点に活動しているマヤ・ジェベイリー(Maya Gebeily)特派員が執筆し、2019年5月24日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。