【3月12日 AFP】姑息(こそく)な手を使う必要があった。ジャーナリストの立場にいると、たまにその必要に迫られる。

 イタリア・ミラノ(Milan)で開催されたフェンディ(FENDI)のショーの後、私は楽屋口に近づき、警備員に、カール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)氏に会う約束を取り付けていると伝えた。本当のところはインタビューすら申し込んでいなかった。だが、当たって砕けろだ。失うものは何もない。ショーは素晴らしかった。AFPのファッションデスクに任命されたばかりの私にとって、トライしてみる価値はあった。

 警備員はためらう様子を見せた。だが私は食い下がった。約束の時間に遅れたら大変なんです。警備員は通してくれた。

仏パリで開催された、フェンディの2017/2018年秋冬オートクチュールコレクションのショーフィナーレであいさつするドイツ人ファッションデザイナーのカール・ラガーフェルド氏(2017年7月5日撮影)。(c)AFP / Patrick Kovarik

 楽屋に入ると、ラッキーなことに、あの伝説的なポニーテール姿でダイエットコークを手にしたカールが、若い女性のブロガーと話をしているではないか。周りにジャーナリストはいない。

 女性はこんな質問をしていた。今回のランウェイにはショートスカートとロングスカート両方登場しましたが、次のシーズンのスカートはどうなるんですか? カールは眉をひそめた。

「女性たちは、だいぶ前から好きなスカート丈を選んでいる。すてきな脚を見せたければショート、少しミステリアスな雰囲気を出したければロングという風に。もうファッション業界は女性に何を着るべきか指図していない。少なくとも『ニュールック』以降はずっとね」

自身のスタジオで、はさみを手にポーズを取るドイツ人ファッションデザイナーのカール・ラガーフェルド氏(1987年3月撮影)。(c)AFP / Pierre Guillaud

 そこで、すかさず話し掛けた。「よくあることなんですか?」するとカールは、戸惑ったようにこちらに視線を向けた。サングラスの奥で薄茶色の目が光っている。

「ほら、たった今彼女に答えたのは、その質問は1951年以降、完全に的外れなものになったんだよ、ということですよね!」と私は続けた。1951年。それはクリスチャン・ディオール(Christian Dior)がファッションに「ニュールック」で革命を起こした年だった。カールは笑みを浮かべた。

 そこで、彼の色使いについて質問してみた。深く明るいブルーと美しいアーシーな土の色。「エドワード・ホッパー(Edward Hopper)にインスパイアされたんだ」と答えたその目は、私の反応をうかがっていた。米現代画家の巨匠、ホッパーのことはもちろん知っている。しかし、この日は早々に失礼した。中に入れてもらったからといって長居をしてはならない。

仏パリで開催された、シャネルの2017年春夏プレタポルテコレクションのショー(2016年10月4日撮影)。(c)AFP / Patrick Kovarik 

 後日、彼自身の名前を冠したブランド「カール・ラガーフェルド」の仏パリでのショーで、長年アシスタントを務めているキャロリン・リバー(Caroline Lebar)に会った。

 ミラノでのことを伝えると、「あなただったの!」と笑顔が返ってきた。「あの日、カールが空港から電話をかけてきて、『どこで働く誰だか知らないが、彼女はポウ、タ、ブルーだ!』って言ってたのよ」

 辛辣(しんらつ)な物言いで知られる気難しいカールに「ポウタブル(potable)」、つまり「まとも」と言われたのは、褒め言葉として受け止めるべきだろう。

仏パリにあるプランタンのクリスマスディスプレーの点灯式で、ショーケースの前で写真撮影に臨むドイツ人ファッションデザイナーのカール・ラガーフェルド氏(2008年11月12日撮影)。(c)AFP / Boris Horvat

 その後3年間、2012年末まで、カールは私のファッションの先生だった。彼はあらゆることに好奇心を持っていた。政治、抗議デモ、文学、もっとたわいないことまで、私たちはいろいろなことを語り合った。

 緊張感が最高潮に達しているとき、例えば、パリのグランパレ(Grand Palais)の壮麗なガラス天井の下で今まさにシャネル(Chanel)のショーが終わり、数十人のセレブがカールにあいさつしようと待ち受けているようなときに、シャネルの広報担当者はよく、その列の中に私を押し込んだ。社交辞令の合間にカールが一息つけるようにだ。興奮の渦の中で、私は「和ませ役」を担うようになった。

 カールはいつも私の腕を取り、「ああ、いたいた」と声を掛けてくる。そうして、自身のショーやアイデア、自分が決めたことなどについて話した。私たちの会話は率直で、気取りがなかった。カールは私に単刀直入で、オープンであることを望んだ。それに応えるのは、お安いご用だった。

仏パリのグランパレで開催された、シャネルの2018/2019年秋冬コレクションのショー(2018年3月6日撮影)。(c)AFP / Patrick Kovarik

 一度、何人かのジャーナリストに囲まれているカールに、いささか世間知らずとも言える態度でこんな質問を投げ掛けたことがある。どうしてシャネルのウィメンズコレクションにはいつも男性モデルが数人登場するのですか? 同僚たちが息をのみ、肩をびくっとさせるのが見えた。今の質問でカール御大が機嫌を損ねたら、インタビューは打ち切りになる。

 カールは私の頬を指でポンポンとたたいた。トレードマークにもなっている指なしの革の手袋が顎をかすめた。「そんなことを聞くのは、私たちとの仕事があまり長くないからだね」と優しく言うと、「ココ・シャネル(Coco Chanel)は全てのインスピレーションを男性から得ていた。ツイードもセーターも…」と続けた。男性モデルの起用は、そのオマージュだったのだ。

仏パリのレストラン「ルドワイヤン」に隣接する温室で開催された、カール・ラガーフェルド氏が手掛けたシャネルの2003年春夏オートクチュールコレクションのショー(2003年1月21日撮影)。(c)AFP / Jean-pierre Muller

 カールは毎回ディオール(Dior)のメンズのショーに招待されていて、LVMHモエヘネシー・ルイヴィトンLVMH)の取締役会長であり最高経営責任者(CEO)でもあるベルナール・アルノー (Bernard Arnault)氏の隣に座った。ショーが終わった後はいつもごった返すので、そんな中でもすぐに見つけられるよう、居場所を常に確認するようにしていた。

 カールのコメントはいつも秀逸だった。その多くは容赦のないものだったが、ウイットに富んでいた。「あのパンツの短さ、見た? あんなの着る人、誰かいる?」と耳元でささやかれたこともある。一方で、自分が素晴らしいと思ったものについては惜しみなく称賛し、好きだという気持ちをありのままに表現した。

 あるとき、アシスタントのキャロリン・リバーから次回のイベントについて電話があった。だが、私はすぐに電話を折り返さなかった。今、ニューヨークでバケーション中なんですと言うと、「あら、私たちもこっちにいるのよ! カールはデパートに招待されているの。来る?」という返答があった。もちろん行く。

仏パリのグランパレでフランス学士院のセットを舞台に行われた、シャネルの2018/2019年秋冬オートクチュールコレクションのショー(2018年7月3日撮影)。(c)AFP / Alain Jocard

 カールは、人前に出ていく前に個室で待機していた。こんな所で何をしているのかと私に聞く。ニューヨーク育ちなんです。そう答えると、「そんな風には見えないな!」と160センチ足らずの私の身長をからかった。と思うと、私の目をじっと見つめて言った。「君は長い髪の方が似合う。ばっさり切り落とすのはやめにしようじゃないか。どうだね」

 フランス人作家のマルグリット・デュラス(Marguerite Duras)やマルグリット・ユルスナール(Marguerite Yourcenar)、カールが初めて米国を訪れたときの思い出など、さまざまな話をしていると、アシスタントがやって来て、アナ・ウィンター(Anna Wintour)氏が到着したと告げた。一分の隙もないボブヘアに冷徹な仕事ぶりで、映画『プラダを着た悪魔(The Devil Wears Prada)』のモデルにもなった米ヴォーグ(Vogue)編集長のお出ましだ。

英ファッション・アワードの授賞式でレッドカーペットで写真撮影に応じるドイツ人ファッションデザイナーのカール・ラガーフェルド氏(左)と米ヴォーグのアナ・ウィンター編集長。ロンドンで(2015年11月23日撮影)。(c)AFP / Jack Taylor

 カールはもうしばらく私との会話を続け、ドアまで見送ってくれた。そしてアナに、「ジェルサンドのことは、もちろんご存じでしょう?」と私を紹介した。言うまでもなく、あのアナ・ウィンターがAFPのペーペーの記者の名前なんて知るはずもない。カールはアナが困惑する様子を見て、明らかに楽しんでいた。

 3年後。ニュースに関わり、現実の世界を報じたいと考えるようになった私は、AFPで事件や裁判を担当するデスクになった。カールは興味を持ってくれた。

 シャネルのオートクチュールのショーが開かれた夜、セーヌ川(River Seine)沿いにあるカールの個人所有の撮影スタジオに呼び出された。同じく彼が所有している書店の裏手にある。ここには何度か来ていた。

仏パリのグランパレで開催された、シャネルの2015年春夏オートクチュールコレクションに登場した米モデルのケンダル・ジェンナー(2015年1月27日撮影)。(c)AFP / Patrick Kovarik

 ショーを彩るトップモデルたちがバスローブを羽織って撮影を待っている。キャロリン・リバーや数人の友達もいた。彼女たちは、私がカールの仕事場に突然、顔を出すことにも慣れている。カールのお抱えシェフが、オードブルのアミューズ・ブーシュを私たちにサーブしてくれた。

 カールに会うのは、これが最後になることは分かっていた。カールは私の新しい仕事について質問した。「つまり、朝の3時にパリで火事があったら、君は、かっこいいバイク乗りと一緒に現場に派遣されるというわけなの?」いえ、どちらかというとデスクワークで、私は人を現場に送る側になるんですと答えると、カールは「ちぇっ、そっちね」とフランス語でつぶやいた。

仏パリで開催された、シャネルの2007年春夏オートクチュールコレクションで(2007年1月23日撮影)。(c)AFP / Martin Bureau

 カールは私が料理好きなのを知っている。戦後パリに着いたときは、町中に食べ物の匂いが漂っていたよ。そんな話をしてくれた。「当時は冷蔵庫がなかったから、みんな食べ物を棚に置いていたんだ」

 モデルたちが待っていた。会話は、さらに40分ほど続いた。もうすっかり遅い時間だ。私はカールの頬にキスをしてスタジオを後にした。別れるのは少し寂しかったが、このような特権を与えられたことを心から名誉に思っていた。

 数日後、自宅の玄関の前に花瓶に入れられた巨大なブーケが置かれていた。ホチキスで止められた手書きのカードには、はなむけの言葉と心温まるメッセージ、そして最後にアドバイスもいくつか書かれていた。「君の後任に、おばかな子を送り込んで来ないように!」このメッセージを、私は心の中でカールのドイツ語なまりをまねして読んでみた。ああ、なんと素晴らしい出会いだったのだろう!

仏パリのグランパレで開催された、シャネルの2014/2015年秋冬オートクチュールコレクションのショーフィナーレでモデルと連れ立ってあいさつするドイツ人ファッションデザイナーのカール・ラガーフェルド氏(右、2014年7月8日撮影)。(c)AFP / Patrick Kovarik

このコラムはAFPパリ本社の写真編集部副部長のジェルサンド・ランブール(Gersende Rambourg)が執筆し、2019年2月24日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。