【12月19日 AFP】仏海外地域ニューカレドニア(New Caledonia)の日系移民が人知れず抱えてきた長い苦難の歴史が今月、初めて公式の式典でたたえられた。最初の日本人移民がニッケル鉱山に働き口を求めてニューカレドニアにやってきてから、今年で120年。当時ニッケル産業で栄えたチオ(Thio)で14日、日本人慰霊碑の落成式が小松一郎(Ichiro Komatsu)駐仏大使も出席して行われたのだ。

 日仏の絆を象徴する十字架と刀をあしらったアーチ型の慰霊碑は、チオの鉱山で働いていた日系移民の子孫である松田幸吉(Yukiyoshi Matsuda)氏が設計した。

 祖父の代にこの地に移住してきたマリージョセ・ミッシェル(Marie-Jo Michel)名誉領事にとって、今回の慰霊碑落成式は、日系人がニューカレドニアの発展に果たしてきた役割と、受けた苦難についての認識を高める努力が成就したことを意味する。

■鉱山労働者から商業経営へ、地域の中心に

 鉱山要員として広島で雇用された599人の日本人移民第1団がチオに到着したのは、1892年1月25日のこと。当時はニッケル産業隆盛期で、チオの鉱山では中国、インド、ベトナムからの労働者も働いていた。

   「みんな貧しくて、ほとんどは未婚男性だった。稼いだわずかな金を日本の実家に仕送りしていた」と、祖父2人が1914年に移住したミッシェル氏は語る。

 1892~1919年に推計5575人の日本人がニューカレドニアへ移住した。大半は沖縄県、熊本県、福岡県、広島県など西日本の出身で、男性たちの多くは現地女性と結婚し、鉱山労働をやめて仕立業や市場向け菜園、食料品店などの商売を営むようになっていった。

 現在ニューカレドニア最大の都市ヌメア(Noumea)ではその頃、「日系移民が町の中心的存在だった」とミッシェル氏は言う。

■戦争が変えた運命、「屈辱の歴史」

 こうして地元社会に溶け込んでいった日系人たちだったが、その生活は1941年12月8日の日本軍による真珠湾(Pearl Harbour)攻撃で一変する。「その夜のうちに、当時のニューカレドニア高等弁務官は全ての日系人を潜在的スパイとみなして拘束を命じた」(ミッシェル氏)。集められた1200人の日系移民はオーストラリアの収容所に送られた。

 財産を没収されて競売にかけられた例もあった。ニューカレドニアに残ることを許された日系の子どもたちも、社会から白い目で見られた。終戦後も日本を敵視する風潮は消えず、多くの日系人が先祖の地・日本への帰還を決めた。その中には、ニューカレドニアに残った親族の消息が分からなくなってしまった人も少なくない。

   「1960年代に入ると状況は次第に良くなったけれど、この屈辱の歴史を口に出して語れるようになったのは、今60代のわれわれの世代が初めてだ」とミッシェル氏は話した。

 戦後に大勢の日系人が去ったニューカレドニアだが、それでも現人口25万人中、日系人は最大1万人を占めている。(c)AFP/Claudine Wery