【1月31日 AFP】東日本大震災の被災地沖では鉛色の冬空の下、今日も海上保安庁の巡視艇が行方不明者の捜索を続けている。この灰色の海のどこかに、数百、あるいは数千の遺体が、まだ誰の目にもとまらないまま眠り続けているはずなのだ。

 海上保安庁の捜索は毎日続く。宮城県沖では魚網に男性の遺体の一部が引っかかっているのが見つかった前年11月を最後にしばらく遺体は見つかっていなかったが、1月末に女川(Onagawa)町沖で漁船が漂流遺体を発見し、連絡を受けた海上保安庁が収容した。死因は不明だが津波の犠牲者の可能性がある。

 海上保安庁の巡視艇「しまかぜ(Shimakaze)」の鈴木義史(Yoshifumi Suzuki)機関長は、「我々がやらなければ、誰も他にやりません。最後の1人が見つかるまで探したいんです。任務だからじゃなく、『探して家族のもとに届ける』という気持ちがある」と語る。「心の中から家族の思いが消えるわけはないんだけど、その人が生きていた証拠がほしいんじゃないかと…(それなしには死を)本当に現実として受け入れられないんじゃないかと思う」

 2011年3月11日に東北地方を襲った大津波は、1万9000人を超える人々の命を奪った。犠牲者のうち6人に1人はいまも遺体が見つかっていない。津波で甚大な被害をうけた石巻(Ishinomaki)市や隣接する女川町では、犠牲者約4700人のうち20%が公式にはまだ行方不明とされている。

「本当に海が透けて見えて肉眼で陸地みたいに見えるなら、もっと探してやれるのに悔しいです」と、鈴木氏はしまかぜに乗船取材したAFPの記者に話した。

■発見は難しくなる一方

 時折降る冷たい雪が身を刺す中、5人ほどのしまかぜの乗組員たちは冬の霧が立ち込める海面をのぞき込み、水中音響探知機を用いて行方不明者が閉じ込められている可能性がある車両などのがれきを探している。

 不明者の存在をうかがわせるものが見つかればダイバーを呼ぶが、海中は透明度がわずか1メートルと視界が悪く、極寒のためダイバーが海中で作業できる時間も数分程度しかない。

 しまかぜの菊池善幸(Yoshiyuki Kikuchi)船長は、大津波に襲われたときの恐怖や、必死に行方不明者を探した震災後間もない日々を今でも鮮明に覚えている。

 津波警報を聞いた菊池氏は、津波から船を守るために船を沖合に出した。沖の方が津波は小さく、乗り越えるのも容易だからだ。しかし、陸から10キロほどの沖合で目にしたのは巨大な水の壁だった。

「この水域では見たこともないようなうねりでした。がれきがそのうち流れてきて…。家の破片、タイヤ…貨物船のコンテナもありました。これはもうおぞましかったですね」(菊池船長)

 渦を巻いて押し寄せるがれきの波がしまかぜの行く手を阻み、帰港できたのは津波発生から3日後だった。そしてすぐに行方不明者の捜索任務に就いた。

 それ以来10か月以上にわたり、菊池氏は行方不明者を捜し続けている。時間が経つにつれて発見は難しくなる一方だ。「一生懸命探しているんですが、だんだん見つけづらくなってきています」と、菊池氏は語る。

■「重機の免許を取ったお母さんも」

 一方、陸上でも警察による行方不明者の捜索が続けられている。しかし、津波とその後の火災で壊滅的な被害を受けた気仙沼(Kesennuma)市では12月を最後に遺体は見つかっていない。

 校舎が津波に飲み込まれて生徒74人と教諭10人が犠牲となった大川小学校(Okawa Elementary School)では、まだ行方が分かっていない4人の生徒が見つかるまで捜索は終わらない。

 1月の寒風が吹くなか、4人の男性が泥を掘り返して子どもたちを捜していた。この悲しい作業を行っていた男性の1人は、「まだ見つかっていない子供たちがいるんで。早く家族のもとにと思ってね。できるだけね」と話した。

 小学校の敷地内には、犠牲となった子どもたちを悼む慰霊碑が建てられている。東京から派遣されて来たという警察官2人が慰霊碑に手を合わせていた。その1人は、「心も痛いです。まだ見つかっていないお子さんの親御さんにも出会いました。重機の免許までとったお母さんもいました…。悲しみはなくならないとは思いますがね。早く見つかってほしいです」と語った。(c)AFP/Miwa Suzuki