【4月9日 AFP】ミウラ・サチコさん(66)は、生まれてからずっと暮らしてきた漁村が巨大津波にのみこまれるとき、事前の警告を受けることはなかった――耳が聞こえないため、ミウラさんは津波警報のサイレンの音を聞くことができなかったのだ。

 岩手県大槌(Otsuchi)町に暮らすミウラさんが津波に気づいたのは、小さな木造の自宅に津波が襲いかかったときだった。国内観測史上最大の、東北地方太平洋沖地震が発生してから1時間も経っていなかった。

 ミウラさんは自宅2階でたった1人、恐怖に震えながら一晩を過ごした。水位は腰まであったという。

 夜になると、窓の向こうで火の手が上がっているのが見えた。ガス爆発のような爆発もあったように感じた。「もう思い出したくない」と、ミウラさんは語る。

 近隣住民に救出されて避難所に移った後も、耳が聞こえないことは大きな足かせになった。食糧配給や給付金の受給、仮設住宅への移転申し込みなどは困難を極めた。

■十分なケア困難、双方に苦しみ

 3月11日のマグニチュード(M)9.0の地震と津波の発生以後、東日本大震災の被災で死亡が確認された人の数は1万2750人に上り、行方不明者は1万4706人となっている。

 また、被災で家屋を失ったり、東京電力(TEPCO)福島第1原子力発電所の事故を受けて放射能汚染から避難してきた人などおよそ16万人が、現在も避難所生活を続けている。

 中でも、被災地で暮らす体の不自由な人びとにとって、大震災はとりわけ厳しいものだったと言える。

 特別なケアを受けられる施設は倒壊し、同じく震災で心の傷を負った被災者たちに頼るしかない状況が続いている。

 ミウラさんの避難所生活の手助けをしているヤマザキ・チカコさんは、「ミウラさんが避難所に来たころは、他の人とうまくコミュニケーションがとれなかった」と振り返る。誰もが強いストレスを抱えている状況なので、他人の面倒まではみていられないときもあるのだろう、とヤマザキさんは語る。

 半身不随のヤマダ・タケオさん(63)は、震災前は専門の介護士がいた。けれど、自宅が倒壊し、避難所に移ってからは、妻がすべてのケアをしている。

 ヤマダさんは、妻に迷惑をかけて申し訳ない、昔のような生活に戻りたい、と口にした。

 ソーシャルワーカーのイワブチ・オサムさんは、多くの介護士たちが震災で亡くなったと述べる。また、被災地を離れた人も多い。

■地域社会の連帯に希望を

 依然多くの行方不明者がいる中、行政は、避難所で暮らす体の不自由の人の正確な人数を把握できていない。岩手県は県内に少なくとも900人が避難所で暮らしているとみているが、他の県では人数の把握も困難な状況だ。

 社会福祉が専門の県立広島大学の三原博光(Hiromitsu Mihara)教授は、地域で一体となって、体の不自由な人びとのケアをすることを勧める。

 苦難を共に乗り越えることで体の不自由な人びとと健常者とのきずなも深まる、と三原氏は指摘し、「障がい者が地元社会にとけ込む良いチャンスだ。この震災から、少しでも良いことが起きてほしいと願う」と語った。(c)AFP/Shingo Ito

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