【1月17日 AFP】亡命先のフランスから25年ぶりにハイチに帰国したジャンクロード・デュバリエ(Jean-Claude Duvalier)元大統領(59)。少年のような風ぼうで「ベビードック」と呼ばれたデュバリエ元大統領(59)は、1986年に国外へ脱出するまで、父親から受け継いだ独裁体制でハイチに「終身大統領」として君臨していた。

 準軍事組織「トントン・マクート(Tonton Macoutes)」の恐怖による15年間の独裁体制を敷いたデュバリエ氏が国外脱出した時、ハイチ国民は歓声で見送った。しかし、16日にハイチに帰国した彼が見たものは、自らが国外脱出したとき以上に崩壊した母国の現状だった。

■ベビー・ドックの恐怖政治

 デュバリエ氏は1971年、「パパ・ドック(Papa Doc)」と呼ばれた父親のフランソワ・デュバリエ(Francois Duvalier)大統領の死去を受けて19歳の若さで権力の座についた。

 父と同様に貧困に苦しむハイチで鉄拳による統治を目指した「ベビー・ドック」は、反政府勢力を弾圧し、自らの思い通りに法を制定。さらに、公費を着服して私腹を肥やした。

 ハイチの伝説に出てくる「子どもさらい」から名前を採った準軍事組織「トントン・マクート」は、ハイチ国民を拘束して拷問を行った。また、「行方不明」となった政敵は数知れず、国民を恐怖に陥れた。「終身大統領」を名乗るジャンクロード・デュバリエ氏による、こうした恐怖統治は15年半に及んだ。

 だが、じきに民主化を求める大衆が多数、路上にくり出し反政府運動が徐々に激化。さらに、同国の人権侵害に国際社会からも非難が集中し、デュバリエ氏は1986年、大衆ほう起の末に国外脱出に追い込まれた。

■即決処刑を中止した独裁者

 1951年7月3日、ハイチの首都ポルトープランス(Port-au-Prince)に生まれたデュバリエ氏は、父フランソワ元大統領が1957年から14年間の統治の間に陰謀や妄想癖を増強させていき、次から次へと市民を拘束しては処刑する様をとなりで見つめてきた。さらに、父親を狙った爆発事件や11度の未遂クーデターにも遭遇している。11歳のときには自らも襲撃され、ボディーガード3人が死亡するなか一命をとりとめる事件もあった。

 腐敗にまみれ残虐な統治が非難される一方で、父フランソワ氏の代名詞ともとなっていた即決処刑をデュバリエ氏が中止したことについては、批判者でさえも評価する。フランソワ元大統領の統治下では、即決処刑による死者は推計3万人に上るとされている。

■国外で優雅な生活

 1990年代後半、デュバリエ氏の統治下で政治犯として拘束されていた人びとが、数年間にわたる拷問は「人道に対する罪」に相当すると主張し、デュバリエ氏をパリ(Paris)の裁判所に訴えた。だが、結果的に、この訴訟は不成立に終わっている。

 一方、国外脱出の際に国庫から多額の資産を持ち出し、国外で優雅な生活を送るデュバリエ氏に対し、公費の返却を求める裁判も、多数行われている。このなかで資産460万ドル(約3億8000万円)をハイチ当局に返却するよう求めた裁判は、デュバリエ氏の家族がスイスの最高裁判所に上訴。スイス最高裁は2010年、すでに15年の時効を過ぎているとして、原告の訴えを退けている。

■ハイチの支援者か罪人か

 デュバリエ氏は2007年、ハイチのラジオ局とのインタビューで、自らの政権下で行った過ちに対する「ハイチ国民のゆるし」を求めている。また、16日に帰国した際には、「(ハイチを)助けるために来た」と語った。

 だが、任期が残り3週間に迫ったルネ・プレバル(Rene Preval)現大統領は以前、元独裁者たちによる不正容疑については、その責任を追求すると言明している。(c)AFP

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